December 31, 2005
2005年が終わる

::クリスマスの朝。
2005年は、日本映画界が悪い方向へ転換した年として、記憶される年となるはずだ。
今や映画会社はテレビ局と連んで、テレビドラマを映画と称し、堂々と映画館で流すようになった。「本物」はもう求められない。必要とされるのは、見た目の豪華さと、食べやすさと、相変わらず安さだけだ。予算の高い作品が増えたかのように思われているが、これまでは6億かけるべきものを3億で作っていたのが、20億かかるものを10億で作っているだけだから、貧乏度合いはかわらない。でも、観客のニーズに応えているし、観客は満足しているんだと言われてしまえば、それまでだ。舌の衰えた観客は「本物」を必要としなくなる。
僕は、貧乏根性の抜けない日本映画界で、映画製作はビジネスでなければならないと主張し続けてきた。観客のニーズに応えた映画製作をしなければならないとも言い続けてきた。しかし、それは、「本物」を極めるためにベストを尽くす映画人が前提でのことだ。
かつてテレビに屈した日本映画は、再びテレビに屈して二度死んだのだ。今はただ、観客がまた「本物」を求めるときが来るのを待つしかない。
来年は、「幸せは歩いて来ない。だから、歩いて行くんだよ」がテーマだ。自分の足で歩く。たとえ、辛くても。無謀と言われても。それで野垂れ死んでも本望だ。
2006年が、私とあなたにとって幸せな年となるよう、祈っています。
December 29, 2005
藤山寛美
午前中に髪を切り、13:00からオズで3人の監督と立て続けに打ち合わせし、17:00からはエイベックスで黒沢清作品の音楽について打ち合わせ。19:00に「旬房」へ行き、友人と食事。ふぐを食べたが、不味かった。ひれ酒なんか、生臭くて飲めなかった。
自宅に帰ると、「藤山寛美 十八番箱 壱」DVDボックスが届いていた。藤山寛美は渥美清と並んで、僕が最も敬愛する役者だ。小学生の頃、土曜は学校から急いで帰り、テレビで松竹新喜劇を観るのが楽しみだった。
早速、「親バカ子バカ」の前後編を観る。ソフト化されているものは晩年のキャストのものが多いのだが、これは、渋谷天外、小島秀哉、小島慶四郎、千葉蝶三朗、伴心平、酒井光子、月城小夜子、大津十詩子、四条栄美といった往年のメンバーが勢揃いしている。今観ても、寛美と天外、千葉蝶、伴心平とのやりとりは抱腹絶倒だ。
名人芸を極める役者はもう現れないのか?
December 28, 2005
クラブ活動
11:00に角川映画へ。来年、共同で製作する映画について打ち合わせ。オズで、鶴田監督、落合監督と打ち合わせし、19:00からエイベックスの剱持さん、柳崎さんと忘年会。
2次会は銀座へ移動。8年前のオープンから通っているクラブ「鳩」へ。ザナドゥーの沼田さんが、松竹興行部長の秋元さんとIMJEの三木さんを連れて合流する。
最近はめっきり行かなくなったが、かつてはクラブ活動に勤しんだ。上京したばっかりの頃、付き合っていた日活ロマンポルノの女優さんが女優を辞め、「グレ」という銀座屈指の名店で働き始めたので、店の前まで何度か迎えに行った。客を見送るきれいなお姉さんたちを見て痺れた。数十万円のチップをもらって帰ってくる日もあり、クラブに対する妄想はどんどん膨らんだ。
奇遇にも、僕の銀座デビューも「グレ」だった。18年前のことだ。クラブ活動やお姉さんたちとの交際で、今まで知らなかった世界をいろいろ体験したり、冒険もした。自信ももらった。人見知りの性格もずいぶん治った。銀座で使ったお金で、家の1軒や2軒は建っただろうけど。
December 27, 2005
原正人さん
オズで黒沢清作品のメイキングについて打ち合わせした後、13:00から富司純子さんにお会いする。美しい。昨今の多くの女優が欠片すら持っていない気品に圧倒される。
14:00にはシネマ・インヴェストメントへ。原正人さんと会う。前にも書いたが、日本で数少ない、尊敬するプロデューサー。
『夢みるように眠りたい』を配給していただこうと、原さんが当時社長をされていたヘラルドエースへ相談に行ったとき、「引き受けてもいいけど、勉強になるから自分たちでやってみたらどうですか?」と言われ、自分たちでやってみることにした。大変だったが、楽しく、本当に多くのことを学んだ。原さんはまた、「映画は完成しただけでは映像でしかない。ちゃんと公開して初めて映画になる」と教えてくれた。
16:00にオズへ戻って、『いぬのえいが2』の打ち合わせ。
19:00に「虎の穴」へ。今年最後となるだろう焼肉を堪能する。
December 21, 2005
石坂浩二さん

::左から、中村敦夫さん、僕、市川崑監督、石坂浩二さん、うじきつよしさん。
中学から友達と8ミリ映画を作っていたが、大学生になった年、「ウルトラQ」の29話目を作ろうという話になった。でも、「ウルトラQ」といえば石坂浩二さんのナレーションは欠かせない。
ちょうどその頃、キネマ旬報から「日本映画俳優全集」という本が出版されていて、そこには俳優の自宅の住所が載っていた(なんと、おおらかな時代!)ので、「学生なのでノーギャラでお願いできませんか?」と石坂さんにダメもとで手紙を出したら、ある日、1本の電話がかかってきた。「石坂です」と言われ、あまりの驚きに絶句した。こっちは、神戸の田舎に住んでいる大学生で、芸能人と会ったこともなければ、話したこともなかったからだ。「東京に来てくれれば、やってもいいですよ」と言われ、早速、東京へ。
その後もちょくちょく東京へ行くようになり、石坂さんにいろんな撮影現場へ連れて行ってもらった。夢でしかなかった映画の世界に、一歩踏み込んだ気がした。間違いなく、石坂さんへの手紙が、僕の人生の分岐点だったのだ。
今日、市川崑監督の忘年会があり、石坂さんと20年ぶりにお会いした。石坂さんは、あの頃と同じように、優しく、楽しく、好奇心旺盛で博識だった。人生でいちばん大切なのは人との出会いだと、最近つくづく思う。
December 17, 2005
ご結婚おめでとうございます

::『帝都大戦』クランクアップの日に。
前列左から、嶋田久作さん、加藤雅也さん、丹波哲郎さん、僕、南果歩さん、
スクリーミング マッド ジョージ、照明の梅谷さん、ツインズの神野さん。
みんな、若い。
帰りの飛行機で、渡辺謙さん、南果歩さん夫妻と一緒になる。渡辺謙さんには、『THE JUON/呪怨』のLAプレミアに来ていただいたときに初めてお会いした。
南果歩さんは、僕が監督した唯一の映画『帝都大戦』のヒロイン。毎日、照明を準備している間や撮影終了直後に、「監督」と呼ばれて振り返ると、南さんが脚本を持って立っていて、「質問があります」「納得できません」と言われ、僕は恐怖した。
撮影が始まって間もなく、撮影隊は長崎県佐世保市に移動。埋立地に建てたオープンセットで1カ月撮影した。雨の日も多く、本当に辛かった。しかも、ほとんどが夜のシーンだったから、毎日、夕方から準備を始めて、空が明るくなるまで撮影し、ホテルに戻って寝る。すると、脚本を持って立っている南さんの姿が夢の中にまで出てきた。恐怖しながらも、南さんに魅入られていたのだと思う。
ご結婚おめでとうございます。お幸せに。
December 14, 2005
『キング・コング』
10:00から、中田監督のアメリカでの次回作の脚本打ち合わせ。「Yabu」で鴨せいろを食べてオズラに戻り、昨日に続いて、年明けから雇う予定のエグゼクティブ候補を面接し、16:30からはフォックス・サーチライトで、ローレンスとジェフと打ち合わせ。
そして、18:30にアークライトのシネラマドームへ。待ちに待った『キング・コング』の公開日。これほど待ち遠しかった映画は何年ぶりだろう。昔は、映画を観に行く前の夜、興奮して眠れないことがしょっちゅうあったのに。
で、『キング・コング』。愛と滅びと孤独、尊厳の美学に貫かれた映画だった。こういう映画に一番弱い。ハラハラドキドキ、何度も息をのんで、そして、泣いた。もちろん、正しい怪獣映画でもある。満場の観客が圧倒されているのが伝わり、上映後も興奮した大勢の観客がロビーで語り合っていた。
「映画はやっぱり素晴らしい」そう実感した夜だった。
December 11, 2005
LAは暖かくてうれしい

::トレッキングコースからはLAが見渡せる。
金曜からLAにいる。昨日、東京では雪が降ったと聞いたが、LAは暖かくてうれしい。
金曜は、前から観たかった『ウェディング・クラッシャーズ』を機内で観て、LA到着後、弁護士、UTA、ロイと立て続けに打ち合わせし、中田監督と「いたちょう」で食事。
土曜は珍しく終日オフだったので、デヴィッドのマッサージを受け、脚本やトリートメントを読みまくり、昼寝して、ロデオドライブでショッピングもして、オズラのヒロコ、ミホコとオズの浅田と4人で「AGO」で食事。ヒロコが勤続10周年を迎えたので、ミホコの提案でCOACHのバッグをみんなで買ってプレゼントする。
今日は、12:30に中田監督とラニオン・キャニオンのゲートで待ち合わせて、トレッキング。15:00には脚本家のテディが来て、彼とシンから、ある企画のピッチを受ける。夜はシンの招待で、ブラジル料理「FOGO DE CHAO」へ。久々に死ぬほど食べた。